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香港のお役所仕事が、どんなものか?
私はそんなに不愉快な思いをした事はない
まあ場数も踏んでないし、シリアスな問題もないから当たり前か。

アドミラリティにある登録所に行った。
そこは結婚やら出生やら、死亡やらの手続きと言うか登録を行うところだ。
平日の午後だったが空いていた。
出生証明書を取りたい子どもの名前を書類に書いて、
手数料を払って
私は出生証明を出してくれる窓口で待った。
窓口の若い兄ちゃんは感じが良かった。
「英語が苦手なんでごめんね」と言いながらパソコンを叩く・・・

なんか問題があるらしい、
隣の席のおねえちゃんを呼ぶ。
後ろの上司らしき人も呼ぶ。
3人が集まって話し合っている、私にはわからないから余計不安。
・・・何なんだろう?

「この子がこの日に生まれたのは確かか?」
「ほんとに香港で生まれたのか?」
しつこく何度も聞かれる
「間違いありません。」
「字はこれで合っているか?」
「間違いありません。」
合っているはず・・・自分の子どもだもの・・合っているはず・・
20分、30分 時間はたつけど問題は解決しそうに無い。

そこへ違うお姉さんが通りかかって、
何やら喋るとキーボードをたたく。
私にパソコンの画面を見せる。
「あ、これです、うちの子」
集まっていた一同にホッとため息が流れた。

そのお姉さんが説明して曰く
うちの次男の名前にはクサカンムリがつく、
だが、クサカンムリのその字をいくら検索してもなかったというのだ。
そこでハタとある事を思い出す私

次男の出生を届に行って名前を書いたときに
窓口の人にこの字のこのかたちの部位は無いからこちらでいいか?
と尋ねられたのだった。
クサカンムリは3画だが、あちらから提示されたクサカンムリは6画
横棒の真ん中がそれぞれ離れた形のクサカンムリだった。
で、私は(見た目似た様なものだから)←ここが間違いの原因
はいはいと頷いたのだった。

・・・・げげ、この渋滞の原因は私だ(^^;

それからはスムーズに処理が行った。
問題を解決してくれたお姉ちゃん曰く
「漢字はね、部位が違うと全然違ってくるからね。」
「すみません、似たようなものなんでてっきりこうだと思ってました。」
「そっか、日本人には同じに見えるんだ。」
「同じってわけじゃないけど・・違うけど・・もごもご(^^;」
「香港は2度目なんだ、戻ってきたのね。」
「ええ、まさか戻ってくると思わなかったんで
 出生証明書もどっかやっちゃった(^^;
 ほんと時間取らせちゃって。」
「いいのよ~、だって私達の仕事だもの。」
などと話がはずみ、ご協力下さったみなさまと握手を交わして
私は帰途についたのです(笑)
みなさま、ご迷惑おかけしました。
3度目は絶対無いのですが、出生証明書はもう無くしません。
後日思い出した。
たしかあれは、記念だと思って
息子のアルバムに貼った。・・(アルバムは日本の倉庫にある)

ついでだけれど
息子が1歳になるまで1度だけかかったことがあるA病院に
ちゃんと記録が残ってました。
こちらに来たばかりのときに2001年に
調子を崩した息子を連れてA病院にかかったのだが
息子の年齢からすると病院番号がえらく若すぎる、
同日生まれの別人でなかったら、
コンピューターのミスではないかと
その病院でも大騒ぎをさせました。
デモドリって何かと問題引き起こしますね~、スミマセンいろいろ(笑)
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【2003/02/28 13:42】 | 昔ばなし |
前回の赴任から丸々6年
もう海外はないかな、というのが我々夫婦の共通認識になりかけていた。
ツレアイの仕事もアジアから離れていたので
まさかまた香港というのは頭に無かった。
しかし2000年12月24日内々辞が出た。
行き先は香港。
しかしまあ全然知らない土地じゃないしね、
かえってラッキーかもということで
香港にやってきたのが2001年3月だった。
3度目ともなると余裕の転勤である(笑)

駐在っていっても全然たいしたことはない。
そりゃあ、赴任している間は
日本にいるときと違う時間が流れるかもしれないが
帰ってきたらあっという間に普通のオバサン生活に戻るのだもの。

みんな帰国が決まると必死にお買い物を始めるんです(笑)
私も、もう海外はこれが最後、と前回2度とも思って、
あれこれ買ったりしたが
日本の狭い家にそぐわなかったり、
オシャレしてお客様を呼ぶ事もそんなになかったりして
(周囲はみんなパートにお忙しいお年頃)
無駄になったものは結構あるものだ。
だから今回はセールにも出かけないし
・・なんか覇気のない生活をしてしまうわけですな。

あらら、話がまたそれた。

香港で暮らす人間には、IDカードの所有が義務付けられている。
これは外国人に限らないし、
12歳以上の子どもも所有せねばならない
香港に来ての手続きの最初は、IDカードの申請だった。
申請の場所はワンチャイというところにある。
ツレアイも同行可能な日となると、やっぱり土曜になるわけで
我々家族は2001年4月のとある土曜日、
一家総出でワンチャイの
人民入国管理所とか何とか言うところに出かけたわけだ。
書類を申請して、写真を撮影し、
さあ、これでおしまい・・・かな・・というところで
急に待ったがかかってしまった。
我々夫婦はあらかじめ、昔のIDカードを所有していた旨を話し
以前のカードも持ってきていた、よって問題無し。
三男は初めての香港で、初めてカードを作るのでこれも問題無し。
問題があったのはこの地で生まれた次男だった。

彼は生後1年で離港しているので、
あの時点でのIDカードは無かったが
今回はカードが必要である
しかも香港で生まれた子どもは日本人にはない、
付録があるらしい。
(それに関してはよくわからないのだが、
 香港で生まれたということで、得になることはあれ
 不利になることではなかったと思う。)
とにかく出生証明書がないと、
次男のカードは作れないということになってしまった。

出生証明書・・・
そういえば次男が生まれたときに
領事館とこちらのなんとかいう役所に届を出したのは私だった。
そうよねえ、あのときは忙しくて行くヒマがないとか言われて
産後2週間もしなかったけど、申請しに行ったのよね、ワタシ。
バースサーティフィケイトとかいう書類を
作ってもらった記憶があるような無いような・・

係りの人はご親切にも、
これから私がしなければならないことをメモに書いてくれた。
どうしても出生証明書が必要になる。
それはこちらの何とか登録所で手に入れられるらしい。
私はそれに従ってアドミラリティにある登録所に出かけたのだった。
そこで出生証明書を取りなおさなければならない。

【2003/02/27 17:20】 | 昔ばなし |
続きがございます。

それから5年後、
ロンドンから帰ってきたとき子ども達はそれぞれ
新中学1年・小学4年・新小学1年に進級する年齢になっていた。
戻ってきたのは出ていった某市である。
それぞれ入学やら転入やらの手続きをせねばならない。

転入は簡単なのだが、
入学には小中学校とも、入学許可証だっけ、
そういうものが教育委員会から送られてくることになっている。
手続きしてすぐ中学一年になる長男には届いたのに
小学校に上がる予定の三男には、入学式前日夕方になっても届かなかった。
周囲の知人に確認して、他の家庭にはがきが既に届いたのは確認した。
私の転入届にはミスはない。
事前に教育委員会にも連絡して、はがきを送ってもらうことも確認済み。
よし、このケンカ(笑)は負けないぞ
・・・となってからおもむろに教育委員会に電話する。
年齢と経験を重ねて、
私もケンカをするには準備も必要なことを学習してきたのだ(笑)
電話ではがきがとどかない旨を説明する
「このままだと明日の入学式には間に合わないのですが
 どうしたらよろしいでしょう」
バカ丁寧に尋ねる。

それから1時間後、
教育委員会の人が、「当方のミスです。」
とわざわざ自宅まではがきを届けにきてくれた。
わお、以前の対応とは全然ちがうじゃん・・・驚く私。
5年間留守にしていた間、
日本のお役所体質も随分変わったのだなと
そのとき実感しました、しみじみ。

ちなみに支所に手続きに行ったら
「こちらの<お客様>が印鑑証明の件で・・」
なんて言われて仰天したものです。
お客さまだってさ~、なんかこそばゆい(笑)

【2003/02/26 12:48】 | 昔ばなし |
だいたいにおいて手続きというのは面倒なものと相場は決まっている。
転入転出を繰り返す人なら、そのわずらわしさはご存知であろう。
帰ってくるとき、出て行くとき、
国内外を問わず住民票から免許証から、
子どもがいれば学校関係の手続きから、
銀行の口座だの電話だの、
とにかく一段落するまでは面倒なことこの上ない。

以前住んでいた某市で、
最初に経験した面倒ごとは、ロンドンへ出て行くときだった。
転出届を出そうと近所の支所へ行き、
手続きをはじめたらあら大変、三男の名前が違っている!
読み仮名はあっているのだが、
漢字に余分なサンズイがついているのだ。
こりゃ困ったぞ、ということで窓口でその旨を伝えると、
あまりそういうクレームの経験のないらしい窓口さん(女性でした)
ひっじょうに面倒そうな顔をした。

それからそれはいかにも私側(つまりりー家)がやったミス、
といわんばかりの口調で、
戸籍抄本を取って、照会してから、もう1度来いと言った。
つまり私の側が間違って届けたんじゃないか、
勘違いしてるんじゃないかというのだ。
私は粘る。
読み仮名はあっている、
漢字にサンズイがついたらこういう読みはしない、
だから私のほうのミスではない。
窓口さん、相変わらず面倒そうに
「じゃあ、どうやって調べるんですか~?」
どうやってって、それがわかったら苦労しません。
だから聞いてんじゃんか。
出生届を出したツレアイは
すでにヨーロッパの空の下であったし。

とりあえず私は引き下がって戸籍抄本を取り寄せることにした。

うちの本籍は九州にある。
私と夫が同じ九州のとある県出身である事から
(というか、年は違うが、我々夫婦は中学も高校も同じだった)
本籍地は動かしていない。
よって取り寄せるにも時間がかかるのだ。

そして取り寄せた抄本には、三男の正しい名前が記載してあった。
となるとミスはこっちにはないよね?
ここで強気になる私(笑)

結局、それは某市側によるミスだった。
なんでも届けの転記の際に間違えたらしい。
なのに、それをタダすために、
支所ではできないから市役所に出向けというのだ。
温厚な私(普段は温厚なのです、きっと、おそらく、多分)
もブチ切れましたね~
「ごらんのとおり小さな子どもがいるんです
 市役所までは遠いじゃないですかっ。
 おまけにそちらのミスだとお認めになったのに
 どうして私が、市役所に行って訂正しなくちゃならないんですか?」
忙しい子持ち主婦にケンカを売ってはいけません。

訂正は支所でも出来た。
というか私が訂正個所を確認すればそれで済んだのだ。
それだけのために、子持ち主婦を
徒歩では行けない距離の(車だと10分くらいなんだけどね(笑)
市役所に呼びつけようとした某市
ったく、だから、お役所というものは・・・

【2003/02/25 13:33】 | 昔ばなし |
あまりの私の落胆ぶりに同情してくれたのか、
そのジョギング男性は、次のようなアドバイスをしてくれた。
「駐車場に行けば子ども連れの母親もやってくるだろう。
 そこで子どもを預かってくれるナーサリーの情報を得たらどうかな?
 僕には子どもがいないので、よくわからないから」

そうだな、それはいい考えかもしれない。
折角ここまでやってきたんだから、やれることはやってしまえ。
私は礼を言って、駐車場に戻って、
子連れ親子が来るのを待ったのだった。
しばらく待つと案の定親子連れがやってきた。
いきなり話しかけたのだが、あまり警戒されなかったのは
子連れだった所以か?
それとも警戒されていてもよくわかっていなかったのか?(笑)
とにかく何組目かの人から、近所のナーサリーを紹介してもらう事が出来た。
もうそうなったらついでであるから、
私はそのナーサリーに出かけてみることにした。

そこは教会に併設された、こぢんまりとしたナーサリーであった。
いきなり尋ねていった子連れ東洋人の、
つたない英語の話を、園長先生は辛抱強く聞いてくれた。
頼みというのは9月から学校に行く子どものために、
5月と6月の2ヶ月の間だけ(7月から夏休みに入るので)、
子どもを預かって遊ばせて欲しい、
できたらアルファベットも教えてやってくれると有りがたい
といった、ほんとに調子のいいものである。
園長先生はヘレン先生とおっしゃる
ちょっと年配の落ちついた女性であった。
ヘレン先生はすべてを了解してくださったうえ、
自分は幼稚園の方針と教育内容に自信を持っているが
それがあなたの要望に沿ったものかどうかはわからない。
この園に通う日本人が2人ほどいて、
彼らを紹介してあげるから、
この園がどんなものかを聞いてきてはどうか?
それであなたが納得したなら、
私は明日からでもあなたの子どもを預かりましょう、と答えて下さった。

それで私は紹介された日本人のお宅に突然お邪魔して
(なんてずうずうしい(赤面)
園のことをあれこれ伺って、
そのキンダ-ガーテンに次男をお願いすることにしたのである。
ん~、今考えるとすごい行動力だ。
それなりに必死だったんだろうなあ(笑)

渡英してすぐのこのエピソードが、
私のイギリスに対する気持ちを決定付けた気がする。
5年の滞英中、何度かいやな目にあった。
それは日本人社会における対人関係の失敗とか
生活の端々で感じる差別とか、
家のメンテナンスにおけるイライラとか
気候のこととか、子育て中のトラブルとかいろいろである。

しかし、私はあの国が好きだ。
ロンドンは都会だから、他人には冷たいと言われるが、
落ちこんだときにいつも誰かが手を差し伸べてくれた、
そんな滞英生活は、今でもとてもなつかしい。

【2003/02/24 12:06】 | 昔ばなし |
ロンドンに着いたは4月だった。
イースターホリデーの前だったと思う。
日本人学校は始まっていた。
長男は日本人学校に通わせる事が決まっていたので、
その手続きに行き、休み開けからすぐかようことになった。
実は免許の切り替えも済んでいなかったし、
国際免許も私は取っていなかったのだけれど、
仕方ないので私はすぐ子どもの送迎をはじめた。
・・・無免許運転は時効ってことで読み流してください(笑)
イギリスでは10歳以下の子どもの一人歩きを認めていない。
これ、法律だったか単なる社会的なルールなのかは知らないが・・・
ついでにいうと13歳以下の子どもたちだけで、
家で留守番をしてもいけない。
車の中に赤ん坊放置、という事件を日本で時々見るけれど、
そんなことしようものならたちまちお縄騒ぎになる。
おとなしく寝てようがお留守番ができようが
とにかくベビーシッターを雇ってなければ、
子どもはたたき起こして連れ歩くものなのだ。

話がそれた。
長男は学校の問題はなかったが、問題は次男であった。
次男は早生まれで4歳になったばかりだったが
9月からの新タームでは5歳児にカウントされる、
ということは学齢に達すると言う事である、
学校に行かせなくてはならない。
私の家がどの学校の学区になっているのかはすぐわかった。
いくつかの、小学校を選択できることもわかった。
が、私は三男がまだ1歳だったのと、
長男の送迎時間を考慮して、
割合家の近くのWという学校に行かせたいと思った。
そこでその学校へ行き、
ヘッドティチャーと面接して、入学許可をもらって、おしまい。
あっさりしたものである。
そこはキンダ-ガーデンも併設していたのだが、空きはないとのことだった。
さて、次男は9月から晴れて1年生ということになる。
しかし英語は全然わからない・・・
日本語も、話す力は急速に伸びてはいたが、
どれくらい言葉を理解できているかと言うと私には心もとない、
人見知りは激しい、友達はいない・・・
私はナーサリーを探そうと思った。

落ちついて考えたら
YMCAやらプレイグループやらを探して、
様子を見ればよかったのかもしれないが、
そのときはとにかく1.2ヶ月ナーサリーに入れようとしか
思いつかなかったものとみえる。
さて、どうやって探そう??

イギリスにはAtoZという地図帖がある、
香港にも便利な地図帳があるが、そんなようなものだ。
ありとあらゆる通りが記されており、
それを持って歩けばなんとか見知らぬ場所でも辿り着ける。
その地図を開くと、家から車でそう遠くないところに大きな公園があり、
その中に「nursery」と書いてあるではないか。
やった~、公園の中ならきっと環境もいいね、と喜んで、
私はさっそくその公園へ向かった。

イギリスには公園がそこかしこにある。
一口に公園といってもさまざまで、
ただの草原だったり、遊具エリアがあったり、
ミニゴルフが楽しめるところであったり、いろいろである。
その公園はGパークと言って、
周囲だけでも4キロ以上ある、大きな公園であった。
パーキングに車を泊め、地図を頼りにナーサリーを探す。
公園の中にはそこの持ち主だった貴族のマナーハウスやら、
売店やら、パターゴルフ場やらいろいろあって、
次男と三男を連れ歩く私はすっかりくたびれてしまった。
地図でみると確かにその辺りだと思われる建物は探し当てたのだが、
付近に子どもの声はしない。
はてさてどうしたものか・・・と思案に暮れる私のそばを、
ジョギング中の男性が通り過ぎようとしたので、
私は呼びとめて聞いてみた。
「ナーサリーをさがしているのです、
 この辺にあると思うのですがご存知ありませんか?」
呼びとめられた男性はびっくりした表情で
「その情報はどこから?」と尋ねる
私はAZを見せた。
その男性はしばらくAZを眺めたあとで申し訳なさげに言った。
「あなたが探しているのは、子どもを預かるナーサリーではないのか」
「その通り、私はこの子ども達のためにナーサリーを探している。
 場所的にはこの辺だと思うのだけれど」
「非常にお気の毒だが、このナーサリーは育苗室のことだと思われる」
「・・・え?」

イギリスの庭園には、必ず苗木小屋があるのだ。
そこで苗を育てて、花が咲く頃になると、表に出す。
そうする事で美しい花を庭園でずっと楽しめることになるのだ。
nurseryってのは、そっちの意味もあったのだった。
っていうかそっちの意味が本来のものなのか・・・

【2003/02/23 20:13】 | 昔ばなし |
そんな・・・ツレアイの会社さん、
内々辞出すならあと1日早くしてよ、申し込んじゃったわよ~
と思いながら、ツレアイからの電話を切ったそばから幼稚園へ電話する。
なにせ12月の最終営業日(いや、幼稚園だから営業日じゃないけど)
お昼は過ぎてしまった。
事務職員さんはすでに帰宅、
残っていたのは園長先生だけだった。
私は必死で事情を話す。
たった今連絡が合って、多分転勤になること、
よって今さっきの入園申込みを取りやめたい事。
・・・だって76000円ですもん、大金ですもん、
規則読んだら一旦申込んだものは取り消せないとあるけど、
こっちだって必死ですもん。
あっ、制服も体育ジャージも、封を切ってしまったんだった、
こんなことなら園で試着とかしなきゃよかった・・・

まあ、こちらの必死なお願いぶりが通じたのか、
制服など、一度封を切ってあるものも、
すべて引き取って、申込みも取り消してあげましょう、
と園長先生はおっしゃってくださった。
とりあえずホッ・・・
やっぱり交渉ごとは決定権のある人としなくては(笑)

それから・・・
年末年始なんてものは、なかった。
ツレアイはちょいと肝臓の数値が悪い。
私も元肝炎持ちで、やっぱり数値が悪い。
なのに二人とも酒を嗜むクチなんであるが、
年明けすぐに健康診断があることが決まっていたので
(ツレアイの会社の決まりで、健康に問題があった場合、赴任は取り消しとなる)
折角のお正月気分も何もあったもんではなかった。
その健康診断をクリアしたら、
ツレアイは即ヨーロッパに向かう事が決まっていたし。
まあ、もとより引っ越しに関しては戦力にならないことは承知していたが。

私は、3人のガキどもを連れての引越しを考えると、
先が思いやられた。
前回は子ども一人だったから小回りも効いたが
今回はなにせうるさいのが3人。
長男が1年生を終えるまでは日本に居ようと思っていたので、
それまでに引越しの段取りとかを考え、
いろいろな手続きをすませなくてはならない。

そうそう、
76000円は全額は戻ってこなかった。
6000円だけ事務手数料だかなんだかで差し引かれてしまったので。

たかが6000円、されど6000円、
人生にタラレバは無いんだけど、
1日遅かっただけで6000円(笑)
こういう金額が頭から消えないのは根っからの貧乏性なんだね、ワタシ

【2003/02/22 13:11】 | 昔ばなし |
1989年12月、
香港から日本に戻ってきて3度目のクリスマスが過ぎた。
長男は小学校1年生になっていた。
私は、翌年5歳児になる次男のため、幼稚園選びに忙しかった。
住んでいた某市に市立の幼稚園はなかったので、
私立の幼稚園に行かせなくてはならない。
次男はこの年、扁桃腺とアデノイドの手術を受けていた。
手術はうまく行ったのだが、
たとえばプールには入れないとか
それまで耳があまりよく聞こえないハンデがあったので
ちょっと言葉が遅めだとか、
理解しておいてほしい事項がいくつかある子だった。
いくつかの候補の幼稚園を見て回り、
それで次男の性格を考え、
私は家から少し離れてはいるけれど、
自由に遊ばせてくれる幼稚園にしようと決めたのだった。

そんなおりツレアイが、もしかしたら転勤あるかも、などと言い出したのだ。
転居を伴う転勤となると、
そうそう簡単に幼稚園の申込みも出来ない。
私は12月27日だったか28日だったか、
とにかく年の瀬ぎりぎりまで申込むのを待った。
規定では、一度申込んだら、
払いこんだお金は返してもらえない事になっていたからだ。
私立の幼稚園に最初に払いこむ金額は馬鹿にならない。
入園金のほかに。制服やらジャージやら、その他もろもろ・・・
慎重になるのは、当然なのである(笑)

いわゆる御用納めの日、
「やっぱり転勤はなかったね」と言いながら、ツレアイを送りだし、
私はその幼稚園に申し込みに行ったのだった。
制服・体操服、その他もろもろの費用、しめて76000円だったか・・・
園にはまだ先生方も何人か残っておいでで、
次男を連れて園を案内してくれたり、
制服に手を通してサイズの確認をしたり、
その日は他に申込む人がいなかったこともあるけれど
私はやはりそこを選んでよかったと思ったのだった。
たっぷり園長先生と話をして、
家に戻ってきたのがお昼過ぎ。
家に帰りついた途端に電話がなった。

電話してきたのはツレアイだった。
「ねえ、もう申込んじゃった?」
「うん、申込んだよ、園長先生と会って、病気のことも話してきた。
 いい先生ばっかりで、よかった。」
「・・・・あのさ、転勤だって」
「・・・・え?」
「ロンドンだって」
「え~~~~??」
え~?そんなの聞いてないよ~~!!

【2003/02/21 13:52】 | 昔ばなし |
カネが無く、カネができたらヒマが無い・・・

そんなに昔ではなく、ちょっと前までは私は忙しい人間だった。
日本にいた頃は、3人いる子どもの学校の、なにかしらの委員をやっていたし
(今は小子化に伴い、子ども一人につき1回委員を、
 というのが私が住んでいた地域の了解事項だったので)
派遣社員として、不定期ではあったけれどフルタイムで働いていたから。

こちらに来て、カネはともかくヒマは売りたいほどある。
その分自分に投資して
何か勉強でもすれば人間向上するのだろうが、
どうにもこうにも意欲が沸かない・・・ダメダメじゃん。
この意欲減退は、ちょっと異常(^^;
その昔、まだ幼い子どもを抱えて毎日毎日テンパっていた頃、
もうかなりお子さんが大きくなったかたから
「もういやだ、と思ったら、半年前を考えてごらんなさい。
 半年前より今のほうが、ちょっとだけ楽になっているでしょう?」
といわれたことがある。
確かに半年前にくらべると、
下の子はおむつが取れたとか、
着替えを自分でできるようになったとか、
ちょっとの間だけ騒ぐのをがまんできるようになったとか、
少しづつではあるが子ども達は手がかからなくなってきている。
それから私は、あまりに忙しすぎてパニクったとき
この言葉を深呼吸とともに思い出して、
なんどか落ち着きを取り戻したものだった。
昨日今日はとても大変でも、半年前よりは楽・・・半年先はもっと楽・・・

そうやって半年、また半年と年を重ねてきて、
今、
たっぷりの時間を持て余す自分がいる。
時の流れって、こんなものなのね。
真っ只中にいるときは、
それがどんなに楽しい事かはわからないんだよね・・

ん~、なんかちょっと淋しいかも・・・
すっごく自分が年取った気分だよ、実際おばさんなんだけどさ。

【2003/02/20 11:39】 | 未分類 |
香港に来てまもなく2年になる。
最初の香港、次のロンドンのときは、
いずれも子どもが小さかったし、
初めての土地だったのでとにかく友達が欲しかった。
ツレアイは出張が多い。
ヒトケタ年齢の子どもを抱える母は不安満載だった。
とりあえず知り合いを作る一番の方法は、
どこかに何かを習いに行く事である(多分(笑)
私は自分の不器用さを棚に上げ、いろいろやりました。

手芸一般・・・ぬいぐるみづくりからパッチワークに刺繍、タペストリー、
料理・・・フランスから和食から和菓子から中華
・・・それなりに知り合いは出来たのだが、
身についた芸は何もないのが情けないかも(^^;
広東語も習った。
タクシーに乗るとき、レストランでの会話その他いろいろ・・・
ほとんど忘れてしまったのもやっぱり情けない(^^;
小さい子どもを連れて習いに行けるところを探して、
我ながらよくやったものだと思う。

今回は、自慢ではないが何にも習い事をしていない。
では1日何をしてるのかというと、
これがホントに何にもしてない事が多いのですな。
ネットはブロードバンドでつなぎっぱなしOKだから暇々にネット、
あとは家事をちょこちょこ、
子ども達は大きくなったので一人で学校へ行き、一人で帰ってくる。
ツレアイも然り(たりめーだ)
私に送迎の義務はない。
今は持病のアレルギーがひどいので、
先週の土曜日から全然外出していない、
本当に一歩たりとも家から出ていないのだ、
なんか自分のことながらすごい(笑)
そんなふうだから、家族以外の人と話をしないことなどざらである。

香港関連のサイトをさまよっていると、
人間関係の難しさをこぼしていたりするのを時々目にする。
私が最初に香港に来た当初は、
まだ<正統派>駐在夫人がそこかしこに存在しておられた。
<正統派>というのは、
どこに出ても出しても恥ずかしくないご立派な方々で、
手作りのお料理はプロ級、
家でお客様をちゃんとおもてなしし
子どもにはいつ日本へ戻っても恥ずかしくないように、
きちんとした礼儀作法と日本語を教え、
周囲の方々ともうまくお付き合いをこなし、
時々はダンナ様とご夫婦でお出かけを楽しむ・・・みたいな
まあその昔の海外駐在マダムのことである。
私の上司夫人もそのような方で、
いつお宅へお伺いしても部屋はきちんと片付いており、
優雅に紅茶と手作りケーキでもてなしてくださる、ステキな方だった。

そんな夫人にあるとき
「りーさん、日本へ帰っても『○○ではマダム』になってはだめよ」
と話された事がある。
お知り合いのひとりにロスに駐在された方がおられ、
その方は帰国されても二言目には「ロスではね」とおっしゃっておられたので、
陰のあだ名がロスではマダム(笑)
そんなふうなことは絶対に口に出してはイケナイ、
というありがたい注意ごとだった。

あれから20年ちかく・・いやはや時代は変わりました。
私程度のものが3度もガイコクで暮すようになり、
ここに来る前に住んでいた某市の小学校は
どのクラスにも数人の帰国子女がいて・・・というご時世になった。
海外なんて珍しくもなんともない。
そんな時代になったのだから、
当地の香港の駐妻の悩みも人間関係問題が結構あるようだ。
そりゃあ、こんなに沢山の普通の
(・・いや、自分も含めて日本のどこにでもいる、という比喩なのです)
人間が、狭い土地
(しかも日本人はワリと固まって住む傾向がある)
にいれば、いろいろ問題も起きてくるのでしょうね。

子どもがいれば、お付き合いの幅は広がるが、
距離を保つのも難しくなる事だって多い。
私も何度か痛い目に合いました。
けれど日本人が多いということは
それだけ選択の幅も広いって言う事だから、
今の友達がダメでも、次は気の合う人とお付き合いできるかも・・・
ちょっとえらそうに言わせてもらえばそんなところかな。

ちなみにうちのフラットに日本人がいるかどうかはよくわからない。
少なくとも小中学生はいないようだ、くらいしか。
なにせ、ワタクシ、引きこもり主婦ですので(^^;

【2003/02/19 20:06】 | 未分類 |
スポーツ音痴である。
運動神経は限りなくゼロに近い・・・かな(^^;
亜熱帯香港でもいろいろスポーツはできるし、
やってらっしゃる方々は沢山おられるのを知っている。
しかし自分は観戦専門、クチばっかり(笑)

1990年から1995年3月まではロンドンで暮らした。
子どもの年齢は渡航時上から7歳4歳1歳
3人の男の子を抱えて、逞しく母をやってました。
ロンドンの話はまた別にするが、
そこでの暮らしで覚えたのがスポーツ観戦の楽しみである。
おもにテレビで、だけどね。

ロンドンでも最初はケーブルテレビを入れていなかったので
BBC2局とに民放が2局だったか、見られる放送はそれくらい。
おまけにすべて英語放送だし(当たり前だってば)
会話の多いドラマは敬遠したくなる。
見てて即結果のわかるスポーツ放送に興味を持つのは
当たり前の流れであろう。

そこで覚えた楽しみの一つがF1、フォーミュラワン。
当時はアイルトン・セナがマクラーレン・ホンダに所属していて、
日本でのF1人気もかなりのものだったと聞く。
私はセナファンではあったのだが
一応名前を知っていたくらいで、
他にどんなチームがあるのかなんて日本にいた頃は全然知らなかった。

夏場の週末、テレビをつけると、
車の走っている映像が見られることがある。
最初はその程度の認識だった。
スポーツにはどれもルールが存在して、
そのルールを知らないと、
ゲームもよくわからないし充分楽しめないことが多い。
でもただ走る車を見ているだけでも、
最初の頃は十分楽しかった。
1時間くらい走るとチェッカーフラッグが振られて、
勝った人が表彰台で、トロフィーを受けとって、
みんなでシャンパンファイト、
ホントに最初はそのくらいしか知らなかったのだけれど、
それでも私は楽しんでいたのだから、
ファンの素質(笑)はあったのだろう。

1994年、セナはウィリアムズに移籍した。
ホンダがF1から撤退した1993年、
マクラーレンの成績は散々だったから
勝ちたいセナがとる行動としては別に妙なものではなかった。
私はマクラーレンというチームが好きだったから、
かなり残念に思ったものだが。

そして5月1日
第3戦目のサンマリノでセナは衝撃的な事故死を遂げた。
あのときのテレビ放送をはじめとするメディアの扱いの大きさが、
私に、イギリスにおけるモータースポーツの占める大きさを
実感させるようになった。

ミーハーなんである。
流行は知っておきたい。
流行でなくとも一応知っておきたいことには首を突っ込んでみる。
F1もそんなふうにして関わってきた。
セナが亡くなって、急速にF1への興味は失せてはいたが、
それでも一応マイ試合の結果チェックくらいはしていたのだ。
その年ベネトンのミヒャエル・シューマッハが初優勝を遂げた。

ところで、私のF1のコンセプト
「F1ドライバーは顔がイノチ」なんでございます(にっこり)
この話、も少し続きます。



【2003/02/18 20:58】 | F1 |
そろそろ開幕・・・

というと世間一般ではなんのことをさすのだろう?
やっぱ野球ですかね?
野球もそんなにキライじゃないのだ。
父がず~~~っとGファンやってたし(ちなみに母はアンチ(笑)
ツレアイもやっぱりGファンだから、
好きとか嫌いとかいう次元を超えて
ジャイアンツには詳しいです、ワタクシ。
金田が国鉄で投げてたことだって知ってますわ、ほほほ。

けど、もうすぐ開幕、
というのでワクワクしてるのはF1なのである。
世間では女性は、
モタスポはどっちかというと苦手な部類に入れる人が多い(らしい)
私もよく親しくなった人から、
あんなに同じところをグルグル回ってるのを見て、
何が面白いの?と聞かれることが多々ある。
(親しくない人には、シュミがF1だなんて言わない・言えない(^^;
でもねえ、楽しいっすよ~F1。
いわゆるルールがちとややこしくはあるのだが、
もう燃費とかカンペキ無視しちゃって、
とにかく速い車をつくるんだい!
と開発に燃えるチームがつくりあげた究極の速い車が、
一堂に会してヨーイドンするんである。
もう背中ゾクゾク、胸はドキドキ、気持ちワクワク・・・
じゃないですか?

年代、明記してませんが40代です、おばさんです。
でも、こんな世間の片隅にもいるんです、F1ファン。
ね?なんでもひとくくりにしちゃ、いかんでしょう?
(誰に聞いてるんだって(笑)

今年はレギュレーションが大幅に変わってしまって、
私もまだ全部を理解しているわけではないんだけど、
これはおいおい覚えていけばいい。
去年はフェラーリの独走でち~~っともつまらんレースが多かったが、
今年のレギュ変更が、さてどんな影響を及ぼしてくるだろう?
ネットのF1仲間はすでにオンシーズン突入である。
私も出遅れないようにしないとね。
テストじゃやっぱりフェラーリ速いんだよね~、とか、
もう出走前のパドックで
ウマの状態チェックするおぢさんたちの心境なんでありますが、
いやいや、もうすぐだね~、オーストラリア。
このネタ、もすこし続きます。

【2003/02/17 20:53】 | F1 |
病院からは翌日退院した。
そこにいて辛いだけだし、
家族と時間をともにしたほうが良いだろうと医者が言うので
従うことにした。
それから・・・

法律上の手続きがあり、
ツレアイが延ばし延ばしにしていた出張をし、
なんのかんのと忙しくするうちに日は過ぎて行ったっけ。
解剖から戻ってきた娘を、シェクオの近くの火葬場で荼毘に付した。
お骨はほんの一握りになったけれど、
可愛い骨壷に入れてもらった。

長男は失語症になった。
言葉が全く出てこなくなり、
話そうとする意欲さえ無くしたようだった。
母は日本へ帰っていった。
長男はぼーっとして1日中テレビの前から離れない。
(その頃は日本語放送などなく、我が家にはビデオもなかった)
ずっとぼんやりと京劇なんぞを眺める長男を見て、
私は初めて我に返った気になったものだ。
私が立ち直らなければ、家族はだめになる、
そう思った瞬間だった。
友人たちも助けてくれたけれど、
やはり最後に私を立ち直らせてくれたのは家族だった気がする。


その後のことなど・・・

半年後再び子どもを身ごもった。
今回は中国人医師にかかった。
病院はセントラルから少し坂を登ったところにある、C病院だった。
妊娠中は何事も無く、出産も無事だった。
これが今17歳の
(一人ででかくなったような顔をしている生意気盛りの)次男である。
そのときもQ病院から、
娘の解剖をしてくれたC医師が立会いに駆けつけてくれた。
無事な出産を我がことのように喜んでくれたのが何より嬉しかった。

それから・・・・
私は前回の出産時の輸血が原因でB型肝炎に感染していて、
これもいろいろあったのだけれど、それはまたいつか。

しかし、よかった。
娘のことに関しては、1度は書き残しておきたかったのだ。
今回の赴任にも、位牌を一緒に連れてきているが、
戒名には「香」の字を入れてもらった。
まさか、また、あなたの生まれた土地に戻ってくるとはね・・・
人生ってわからないよね。

【2003/02/16 20:46】 | 昔ばなし |
1984年の11月2日は抜けるような晴天だった。
病室の窓からずっと外を見ていたから、覚えているのだ。
あの空の青さはきっと一生忘れないだろう。

子どもは死産だったと伝えられた。
私は、自分の出産ながら、
笑気麻酔で朦朧としていたので、よく覚えていない。
女の子だった。
髪がふさふさとしていて
頬のふっくらとしている女の子だった。
やっぱり首のあたりにコブがあったとかで、
その付近はガーゼで隠してあったが
抱いたらずっしりと重たくて、
なんで泣き出さないのか、
どうして息をしてないのか、不思議に思えた。

公立のQ病院から小児科医が来てくれていて、
彼が解剖を申し出てくれたので、娘を預けることにした。
生まれるまでのちょっとの期間、
胎児が羊水を循環させる事ができなくなっていたので、
羊水が増えつづけており、通常の4倍あったとか
その他にもいろいろとあったらしく、私は輸血もされていた。
母体の危険度がかなり高かったのだとあとから知らされて私は驚いた。
そういう自覚も全然なかったから。

病室に戻って、その日は何をしていたのだろう。
ずっと空を見ていた記憶しかないのだが。
病院の配慮で、私の病室の両隣は空室になったそうだ。
赤ん坊の声が聞こえては可哀想だということだったらしい。
ふと、日本だったらと考えた。
日本でこのようなこまやかな配慮というのが
あの大学病院で受けられるのだろうか?
・・・無理だろうなあ、あそこでは。

母親は元気で良かったと言われたが
昨夜まで大きなお腹をしていて、
胎児はそれなりに動いていたのに、今は何も無い。
生まれた子どもは女の子だったがすでに死んでいた。
そういう事実をひとつひとつ消化できるほど
時間はたってはいなかった。
それでも現実は現実だった。
私の娘はこの世で生を受ける事はなかった。
それが事実で、私と私の家族が受けとめなければならない現実だったのだ。

【2003/02/16 14:09】 | 昔ばなし |
香港は一年中暑いと思われているかもしれないが(そんな人はいないか(笑)
ここは亜熱帯で、一応四季はある。
四季と言っても、半年ほどの長く蒸し暑い夏と、残りの季節というかんじで
日本のようにくっきりとした春や秋や冬の区別はない・・と思う。

10月の半ばからあれほど蒸し暑かった夏はどこかへ去り
かわりにさわやかな秋がやってくる、
湿度は60パーセント以下に下がり、晴天がつづき
気温は20度から25度くらいと、
日本よりずっと過ごしやすい秋の到来だ。
これから2月の終わりくらいまで
湿度の低い季節があるから香港で暮らしていける
と言う人もいるくらいで、
この時期はいろいろな屋外スポーツも楽しめる
ほんとうに良い気候が続くのである。

10月も終わろうとするときだった。
そろそろ日本に出産に帰らねばと、支度をし始めていた頃だった。
ツレアイを送り出して、家事に取りかかろうとして、
突然、私は動けなくなった。
言葉も出なくなるほどのものすごい腹痛に襲われ、
ベッドで七転八倒・・・
そのとき運良く友人から電話が入り、
それでツレアイに連絡が取れて、
私は急遽病院に入院したのだった。

病院はピークの近くだった。
欧米人が好んで利用するところであったらしい。
その頃そこで出産する日本人がどれだけいたかは知らないが
そんなに多くなかったのではないだろうか?
今はなんでも日本語の通訳の方がいるそうだが。
M戦争記念病院という名前なのだけれど、
かの香港を舞台にした
古い映画の「慕情」で主人公の女医が勤務していた病院である。

入院してからの記憶は曖昧だ。
何日間入院していたかもあまり記憶にない。
ツレアイが、なんとか日本に連れ帰ろうと
航空会社にかけあったり、医者と相談したりしたらしいが、
結局だめだった。
しかたがないので私の母に日本から来てもらうことになった。
ツレアイと母と医者の話し合いで、
結局母体の安全を最優先するということに落ちついたそうだ。
それで治療の方針も固まったらしい。

病室は個室だった。
窓の外には、緑が広がり、眼下に海が見えた。
夜になると毎晩シスターが枕もとにやってきて、
いろんな話をしてくれた。
それは神のご加護の話であったり、
シスターの故郷の話であったりしたが、
腕や背中をさすりながら彼女はいつも長い事語りかけてくれた。

そして11月になった。

【2003/02/15 21:33】 | 昔ばなし |
香港に戻ってきて、
私はツレアイと一緒に例の英国人医師のところへ行った。
大学病院からの手紙の入った<しっかり糊付けされた>封筒を持って。
彼(医者)は心底驚いていた(ようだった、ように見えた。)
自分がその異常を発見できなかった事に。
その時点で発見できなかった事に対する率直なわびの言葉もあった。
そして、その封筒を私の目の前で開いて一読したあとで
彼はそれを私たちに見せながら、
胎児の状態について詳しく説明をはじめたのだ。
私は自分の子の状態を、そのとき「初めて」知ったのだった。
心臓の弁と、心臓の膜に異常があること、
首の部分の後ろにおおきなコブ状のものができていること、
わかっている異常はその二つだった。
そのほかにも内臓に問題があるらしいことも付け加えられていた。

私は多分冷静にそれを聞いていたのだと思う。
少なくともパニックに陥った記憶はない。
今後の生活の注意点とか、
検診の頻度とかの説明もちゃんと質問していたし。

それよりもそういう状態である事を、
なぜ大学病院の医師が私に、
当事者の私に説明しなかったのかの方が腹立たしかった。
ここまで詳しく分かっているなら、
もう少し納得の行く説明をしやがれ!と真剣に腹を立てていた。
妊婦は興奮させるといけないのか?
不安要素を抱えさせるとまずいのか?
なんで私が、話の内容を受けとめられない人間だと
どういう基準で判断したのだろう?
ったく、私もなめられたもんだ、と一人で怒ってツレアイに窘められた。

福岡には全国でも有名な子ども専門の病院がある。
そこの心臓部門は全国でも1.2と言われるほど優れているそうだ
(なにが優れているかはよくわからないので突っ込まないように(笑)
大学付属病院で出産してすぐ、
こども病院に搬送する手続きもできているので、
とにかく出産は日本で、とその手紙には記されていた。
8ヶ月までは多分大丈夫なはずだから
9ヶ月に入るまでに帰国させて欲しいと書かれていた。
英国人医師は、それに従ったほうがいいだろう、と私達に告げた。

いろいろ不満はあったものの
私もその判断に従う事にした。
11月の始めまでに日本に帰ればいいね、
私達はそう予定を立てたのだった。
子どもの誕生予定は1月1日だった。

長い事留守にしていたので、
香港の友人たちはみな心配してくれていたのだが、
私が元気に帰ってきたので驚いたそうだ。
もっと落ちこむとか、やせ細って帰ってくるのかと思ったといわれた。
私は見かけ、普通の妊婦と何ら変わらなかったし、
自分では異常が全く自覚できなかったので、
何を特別にいたわるということもなく、
家事をこなし。子どもと遊び、普通に普通に生活して
・・・そして、
もしかしたら胎児の心臓異常って間違いじゃないかと、
そんなふうに考える事もあるくらいの生活を送っていた。

【2003/02/14 17:18】 | 昔ばなし |
K大付属病院は、誰でも突然入院できるところではない。
それは今でもそうだろうと思う。
たまたま飛びこんだ産婦人科のお医者さんの息子さんが、
そこにお勤めだということで
(優秀な息子さんだったんですね・・今更ですが)
私は飛びこみ患者だったにもかかわらず、
運良く、すぐ受け入れてもらえたらしい。
たしか付属病院に受診に行って、
翌日だかの検査入院が決まったのだった。

病室は6人部屋だった。
年配者が多かった気もするが良く覚えていない。
なにせ香港から帰ってきてその直後の母の入院だ、
2歳の長男はパニックになっていた。
祖父祖母とも日頃一緒に暮らしているわけではないし、
友達もいない、父親も居ない、たよりの母は突然入院。
入院していた1週間、彼は毎晩夜泣きをして
「お願いだからママのところへ連れていって」
「イイコにするから連れていって」を繰り返していたそうだ。
昼間は必ず会いに来てくれて
にこにこしてとても聞き分けがよかったのだが、
夜になると寂しかったのだろう。
そりゃ、2歳になったばかりだったのだもの、仕方ないよね。

1週間の入院は暇だった。
1日1度どこかで何かの検査をやる。
集中的にやれば1日で終わりそうなものだったが、
まあ、それは素人考えというものであったろう、もちろん。
それにしても暇だった。
6人部屋のほかの人達の質問責めもうざかった。
自分でもどこがどんなふうに問題があるのか、
わからないから余計にうざったかった。
医者に会うのは1日に1度くらいだったし、
どの人が自分の主治医なのかも良くわからなかった。
検査をしてくれた医者にあれこれ聞いてみても、
誰もはっきり答えてくれなかったし。

インフォームドコンセント、という言葉が
一般的になったのはいつごろからだろう?
今はどんな処置をするとか、どんな検査をするとか、
あらかじめ患者と医師は
しっかり意思の疎通をはかる仕組みが出来ているのだと思うが、
なにせあのときは、自分は常にかやの外だった。
私の両親も何を聞いても答えてくれないと言っていた。
「ご主人は?」と尋ねられて
「香港におります」
「こちらに戻ってこられますか?」
「無理です」
それでおしまい。
こんな状態だから話をしたいと言ってくれたら、
きっとツレアイも時間を作って話を聞きに帰ってきたのに、と今なら思う。
とにかく、な~~んにも私は説明を聞くことができないまま、
1週間の検査入院は終わった。

それから定期的に病院に通う生活をしていたのだが、
自分ではどこにどんな異常があるのかわからないまま、
夏は過ぎて行ったのだった。
9月になって私は香港に戻ることにする、と医者に宣言した。
「戻ります。」
医者は驚いたようだった。
ずっと出産まで福岡にいるものだと思っていたと言われた。
「服も無いし、あちらの家の状態も心配ですから、戻ります。」

結局私の主張は通った。
医者は飛行機に乗る事が危険だとは言わなかった。
私は<しっかり糊付けされた>封筒と
「必ず9ヶ月目に入ったらこちらに戻って来てください。」
という医者の言葉とともに、香港に帰ってきたのだった。
香港は相変わらず夏だった。

【2003/02/13 13:27】 | 昔ばなし |
1984年の春、二人目を身ごもった。
近所で親しくなった英国人の友人の勧めにしたがって、
英国人の初老の男性産婦人科医にかかった。
これは今でも同じ仕組みだと思うが、
香港のプライベート産婦人科医は自前の病院を持たない。
街中に診療所を持ち、
自分の患者が出産するときは
自分がベッドを持っている病院に入院させてそこに通うのだ。

一人目が問題なく生まれて来たこともあって、
私は二人目の出産になんの不安もなかった。
・・・普通の人間ってそうだよね。
医者はかなりのベテランで、
古いタイプの産婦人科医だったのだと思う。
その頃はもう普通になっていた超音波を使った検診をせず、
毎月の検診でも元気だ、大丈夫だと繰り返してくれていた。
私は、ほんとに何も心配していなかった。

安定期に入って、私は日本へ一時帰国をした。
両親も長男と会いたがっていたし、
何と言っても香港は近いので、気楽に帰国できるのだ。
そのころ両親は福岡に住んでいて、
香港-福岡便に乗ればほんの数時間で実家に行く事ができた。
関東に住んでいたときよりも便利なくらい(笑)

ついでだからこっちでも検診うけとこうか・・
そんな軽い気持ちで福岡のとある産婦人科で検診を受けたのだった。

「お腹のお子さんの心音がおかしいですよ」
医者は深刻な表情で私にそう告げた。
「・・・・・・・・・?」
医者にそう言われても私は事態が全く飲みこめなかった。
心音がおかしいっていうのは、どういうことなのだろう?

それからどんな話をしたのかは、もう記憶に無い。
とにかく大学の付属病院に検査入院する事がその場で決まって
私は翌日K大付属病院に行ったのだった。
「こりゃ、もしかしたら、ダメかもしれんな・・」
と不安げにつぶやいた医者の言葉を重く受け止めながら。

【2003/02/12 13:18】 | 昔ばなし |
船便で送った荷物はひと部屋にまとめて積み上げてあった。
送ったのは何ヶ月か前だったし、
香港の夏を越したあとだったので
ダンボールは既にふにゃっと形を崩していた。
今も昔も、香港の湿気はすごいのだ。
除湿機もクーラーもかけない部屋で
夏を過ごした荷物がどうなっていたか・・・
・・・思い出したくもない、忘れたことにしよう。
荷物をほどかなかったツレアイを
責めたりする事の無かった寛容なツマの私だったが、
片付けはじめるうちに、
どうも送った荷物のうち、
ダンボール一つだけ無くなっているらしい事に気づいたのだった。

今は海外引越しを扱う運送会社もそれなりに沢山あるし、
海外赴任だって珍しくも無い時代だから、
運送会社のサービスもかなり良くなってきている(・・と思う)
が、20年ほど前の引越しのときは、選択の余地はなかったのだ。
保険のリストはともかく、
荷物の内容リスト作りから、壊れ物じゃないパッキングまで、
運送会社(あ~、名前を出したい!(笑)の指示にしたがって、
お客の私がほとんどをこなさねばならなかった。
乳飲み子抱えてたんだよ、あたしゃ。
で、私はその運送会社に、
ただでさえいろいろ恨みがたまっていたわけである。

結婚してから、日本ではずっと関東で暮らしているが、
実家は九州にある。
あのころはまだ父も現役で働いていたから、
母の応援を簡単に頼める状態ではなかった。
今のようにネットで簡単に情報が入る時代ではない。
会社で赴任前の説明会も開かれていたが、
乳飲み子連れで上京するのは辛かったので、
(っていっても住まいはS県U市なんだけどね)
パンフをもらってそれでおしまいにしたから
何を持って行ったらよいのか、よくわかっていなかったなあ、そういえば。

話がそれてるぞ(^^;
とにかく一人でほとんどすべてこなしたので、
荷物の紛失もすぐにわかったのだ(えへん)
それで運送会社経由で保険会社に紛失の件を知らせ、
賠償してもらおうとした。

この事件が<今>の私の性格形成に
大きく関与している事は間違いない。
・・・言い方が大げさだと笑わないように・・・
とにかくこの交渉は長引いた。
保険の請求が遅すぎたのが一番の原因なのだが
(私は荷物が届いた半年後くらいに請求したので)
のらりくらりと部署を回され、かわされ・・・
いったいどれくらいの労力をかけた事か。
ようやく日本円にして1万円の保険金を手に入れたときは、
まっこと涙モノでありました。

とにかく交渉ごとは粘り強く、ときに高飛車に、
絶対下出に出ないで、自分の主張を貫き通す。
これ、このときの教訓である(笑)

ちなみに、無くなったダンボールに入っていたのは、
多分フライパン一個。
なんでそれだけが無くなったのかは、いまだもって謎。
なんでそれだけを一つのハコに入れたのかも、
やっぱり謎(笑)

【2003/02/11 20:37】 | 昔ばなし |
今も昔も香港で一戸建の家に住むのは非常に難しい。
・・・ってか、ま、普通の駐在じゃ無理でしょうね。
以前の駐在のときは、
香港の日本人で戸建てに住めるのは
総領事と○○○○(←会社名が入ります)の社長だけ・・
なんてことを申しておりました。
今は結構一戸建てが分譲されているようなので
もしかしたら戸建て住まいの日本人も結構いるのかな?

私達の香港島の住まいは、
下町から山のほうに登ったところにあった。
着いた家は3ベッドルームで、広さも60㎡くらいはあったと思う。
20階建てのフラットの1階だったのだが、
日本のマンションの1階とはちょっと違う。
まず道路から入るところに、
ウォッチマンと呼ばれる
管理と警備をも兼ねた人達の詰め所があるのだが、
そこからエレベーターで4階分ほどのスペースを上がって
初めて住居のある面に出るのだ。
4階分だか5階分だかのスペースは駐車場になっている。
住居のあるフロアに出ると、
そこには猫の額ほどの子どもの遊び場所があって、
遊具も少し置いてあった(ブランコやらシーソーやら)
我が家はそこから階段一つ分を上がった、
ヨーロッパの数え方の(なにせ英国植民地でしたから)
ファーストフロアなのであった。
だから道路側からはかなり高いところに住まいがあるので、
排気ガスとか騒音とかはほとんど気にならなかったのはありがたかった。
道路から直接入りこめないとはいえ、
1階の家はどの窓も鉄格子がはめこまれていた。
バルコニーも小さいのがあったけれども、
そこも足元から天井まで鉄格子。
そこから外を覗く息子の写真があるが、
あれはどう見ても牢屋の中から外に出たいと叫ぶ囚人のようだ(笑)
マウントビューだと聞かされていたのだが、
何てことはない、目の前は同じフラットの違う棟と崖だった。
崖しか見えなくてもマウントビューとはこれいかに(笑)
モノは言いようだ。
たしかあのフラットは全部で3棟あったように思う。
1階の我が家となる家は薄暗かった(気がする)
アイアンドアといわれる鉄格子扉と木の扉の二つを開けて
部屋に入った途端に、私は目眩を覚えた。

何なのこれ?

内装の感覚が、全然日本人好みじゃない!
壁には至るところに鏡があって(寝室など一面鏡だった)
それは部屋を広く見せるし
少ない電球を倍に明るくしてくれるから良いのだが
(・・・そうか?そういうものか?(笑)
壁紙も柄、カーペットも柄、ソファも柄、
しかも赤とか茶色が基調というのは、いかがなものか・・・
居るだけでイライラしてくる。

あの柄御殿は今でもはっきりくっきり記憶にある、
もう20年近く前のことなのに。

しかしそこはツレアイが選んだ家ではなかったので、
ワタシもペーペーのツマとして、
文句たらたら言うわけにはいかなかったのだ。

【2003/02/11 14:31】 | 昔ばなし |
転勤族の娘だった。
生まれたのは父の出張先で、
その土地にはほんの少ししか滞在せず、
そのあとも転居転居を繰り返した。
幼稚園の卒園式を終えてすぐ引越しをし、
小学校の入学式のときは誰も知り合いのいない隣の県にいた。
そのときの不安そうな顔が入学写真に残っている。
小学校は4回転校した。

そして今も転勤族の妻をやっている。
結婚してからの引越しは今までに10回。
うち海外勤務が3回、ただいま香港在住中。

大学を卒業してすぐ結婚したので就職経験は無い。
今も専業主婦、子どもが3人、それもオトコばっか・・・
ちなみに一番下が14歳でございます。

最初の海外も香港だった。
上の子が生まれて8ヶ月くらいのときに辞令をもらって、
ツレアイはさっさか赴任していった。
あの頃はまだ香港もイギリス領で反日感情も強く、
衛生状態その他不安も大きかったので
私は息子が1歳過ぎるまで実家にいて、
予防注射を済ませてから香港へ行ったのだった。
9月だったかな。
福岡の板付空港から息子と二人で飛行機に乗ったのだが、
海外に出るのは新婚旅行以来2度目、 
おまけに今度は乳飲み子付き、
デッキで見送る両親を見たら涙があふれてきたっけ・・
いや、ワタシも若かったのだよ。

9月の香港はまだ真夏だ。
香港特有のもわっとした湿気に出迎えられ、
カイタック空港に到着したわけだが、
香港島にある住まいに着くまでに
通りぬける香港の薄汚いビル街に言葉も無かったのを思い出す。
あの頃はまだ九龍城があって、
空港から香港島に来るにはその横を通りぬけたものだった。

今はランタオ島に新しく国際空港ができているし、
空港から街中への道は快適だ。
昔のように衛生状態が不安だと言うことも
ほとんど無くなっていると思う・・・たぶん、ですけどね。
もう乳飲み子もいないから、
オバサンにはわからない事も多くなってきています。

【2003/02/10 20:13】 | 昔ばなし |
日記なんて久しくつけた事はないのだが、
日々の思いをどこかに残しておきたくて、綴ってみることにした。
しかし飽きっぽいヤツだからなあ、いつまで続くやら・・・
とにかく頑張ってみます。

2月某日

今日はNBAのオールスター戦だった。
神様MJがこれが最後のオールスターだと宣言していたので、
ここのところ遠ざかっていたバスケットの試合を久しぶりに見た。

私は彼が神だった時期をずっと見てきたのだった。
髪の毛があった頃だって知ってる。
スリーピートを2回やってのけ、
2度も引退宣言してファンをがっかりさせ、
2度の復帰で我々を喜ばせ・・・だけど今度は本当の引退だろう。
彼ももう、40歳、神様だって年を取る。

引退する人には共通の表情がある。
そのうち書くと思うけれど、最近で一番好きだったミカもそうだった。
マイケルは穏やかにゆったり微笑んで試合を楽しんでいた。

私はマイケルの勝負強さが何より好きだった。
彼にボールが渡ればなんとかなる、彼なら何とかしてくれる、
そういうチームメイトとファンの気持ちを、
彼は裏切らない人だった。
今日だってコービーがフリースローを決めなかったら、
マイケルはヒーローで試合を終えたのになあ
(でもあそこできっちりと決めたコービーもえらいけどさ)

これから伸びて行く若い芽のような人よりも、
盛りを過ぎて引退間近のスポーツ選手により目が行くようになってきたのは、
やっぱり自分も人生の盛りを過ぎてしまったからかしら。
・・・な~んてね、オンナの人生はまだまだこれからよ!
頑張れ>自分(ちょっと苦笑いだけど)

・・・って、最初の日記がこれでいいのかな?(笑)

【2003/02/10 17:46】 | ひとりごと |
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