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1984年の11月2日は抜けるような晴天だった。
病室の窓からずっと外を見ていたから、覚えているのだ。
あの空の青さはきっと一生忘れないだろう。

子どもは死産だったと伝えられた。
私は、自分の出産ながら、
笑気麻酔で朦朧としていたので、よく覚えていない。
女の子だった。
髪がふさふさとしていて
頬のふっくらとしている女の子だった。
やっぱり首のあたりにコブがあったとかで、
その付近はガーゼで隠してあったが
抱いたらずっしりと重たくて、
なんで泣き出さないのか、
どうして息をしてないのか、不思議に思えた。

公立のQ病院から小児科医が来てくれていて、
彼が解剖を申し出てくれたので、娘を預けることにした。
生まれるまでのちょっとの期間、
胎児が羊水を循環させる事ができなくなっていたので、
羊水が増えつづけており、通常の4倍あったとか
その他にもいろいろとあったらしく、私は輸血もされていた。
母体の危険度がかなり高かったのだとあとから知らされて私は驚いた。
そういう自覚も全然なかったから。

病室に戻って、その日は何をしていたのだろう。
ずっと空を見ていた記憶しかないのだが。
病院の配慮で、私の病室の両隣は空室になったそうだ。
赤ん坊の声が聞こえては可哀想だということだったらしい。
ふと、日本だったらと考えた。
日本でこのようなこまやかな配慮というのが
あの大学病院で受けられるのだろうか?
・・・無理だろうなあ、あそこでは。

母親は元気で良かったと言われたが
昨夜まで大きなお腹をしていて、
胎児はそれなりに動いていたのに、今は何も無い。
生まれた子どもは女の子だったがすでに死んでいた。
そういう事実をひとつひとつ消化できるほど
時間はたってはいなかった。
それでも現実は現実だった。
私の娘はこの世で生を受ける事はなかった。
それが事実で、私と私の家族が受けとめなければならない現実だったのだ。

【2003/02/16 14:09】 | 昔ばなし |
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